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篠塚三人衆 



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colors登場人物の篠塚の方々です。
上げるのに大変時間が懸かりました。申し訳ないです。
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縮小 

ブログの活動を、縮小します。
そんなに多くの人が見ているわけでも無いのですから活動云々言ったり縮小とか何か勘違いしてる人っぽくて変な感じです。
書いてる記事も最近は間隔開いてきて少ないですし。

理由を挙げるとまぁ忙しいからというのもあるのですが
ぶっちゃけていうと煩わしくなったのですね。

記事を書くのが単純に面倒になったとかではなく、今の自分にはやっぱり時間が必要だ、という事でしょうか。
このブログは自分の思ったことや意見を、個人的には独白できる場所だと思っていましたが、勘違いに気付いたというか、今更、恥ずかしながらにそうではない事に気付いたという事ですね。
目に付くような形で自分の考えを載せることはどんなに小さな隅っこのほうで起こってることであれ、それはそこに人の意見を求めている社会的な行為で、自分が求めるものは別段ここでは重要ではないという事でした。

始めた当初というのは何も考えずに面白半分でしたが、それが徐々に人のつながりになり、かつて現実では満たされないようなつながりや同意というものを求めていました。
そのうちに、個人的な悩みというものが頭を擡げ始め、此処に独白のつもりで、ここが自分の領域だと感じて書いていました。
実際それはそうなんだと思いますが、ここでは思ったより簡単に人と人との距離が縮まります。
人との距離、これは自分にとって大きな問題です。

自分は一回、人とのつながり、人がたくさんいる中での社会的な活動の中で失敗した人間です。
今までの自分は少し欺瞞的な部分が多すぎでした。

初めから何も言わなければ言い、そう考えたのですね。
何が悪いとか正しいとかではなくて。

かまって欲しさから来る人への親切だとか、そういうのは自分の慰めだけで相手を見ていない、この事実が今の自分には何よりも重い発見でした。
動機が問題でした、言葉とか行動だけをとるなら誰だって雄雄しく立派になれる。
建前と本音、難しいモンです。

かといって、せっかくここまで続けたブログを閉めるのもアレですし、なんだかんだいって年単位で続いているので。
閉鎖じゃなくて縮小みたいな感じで細々とする事に。

勝手に空回りをしている感じです、本当に自分で何をやっているのか不可解な部分があります。
肯定も否定も、今の自分には煩わしく映ってしまうので落ち着くまでは記事で文章を書く事は無いでしょうね。
もしかしたら勝手にこのブログを放置して新しく作って消えてるかもしれない。そうじゃないかもしれない。

なんにせよ軽い気持ちで動く事は今の自分には出来そうも無いことですから、こんな仰々しく文章を書いているわけで。
言葉は苦手です、人と論ずるのは苦手です。自分の考えを書くのも苦手です。
結局は言い負かされても自分の言い分は変わらないので、別に言葉を発する必要も無い。
改めさせられるんだったらそのときに考えれば言い。

絵は載せます。
描かなくてはいけないのもありますし、気まぐれで載せるかもしれない。

コメントの返事はしません。

そのような感じです。

それでは。


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トラウマ 

以前から何度か記事で書いたことがありますが。
自分は過去に、長い事いじめを受けていた経験があるとです。

小学校三年辺りからおぼろげに、五年で確定的に標的になり、中学校もまだその人間関係が続いていました。
高校はそういう人間関係にいい加減ウンザリしたのでそういう人たちがいない場所に行きましたが。

気が付いたら周囲から阻害されて、気が付いたら自分の価値を貶められて、否定されてしまっていたんです。
当時はただただ、周りが怖くて、一日一日毎日毎日が地獄のようでした。
年間通して苛められると逆にその事にある程度なれるというのも恐ろしい感じがします。

殴られるとか、痛い思いをするなんて事はさすがにありませんでしたが、それでも一対多で日常的に自分というものを否定されて、その苦しみは決して軽いものではありませんでした。
いじめられている日常から逃れるには、周りに何も感じないようにするのが一番なんですよ。
見ているものも、聞えているものも、そこにいる自分でさえも、どこか一歩引いた感じで舞台でも見るようにして日々を生きるんです。
今にして思えば、それが自分というものを大きく損ねた選択でありました。
いじめてる側に何言ったって改善される訳が無いと思っていましたし、諦めていました。
粘着質な感じで、何を言っても、問題を表面化しても、何をしてもいじめる側がそれをやめることは無いとはっきりとしていた感じですかね。

何故こういう嫌な話をを書くかと言うと、意識を外側へ向けるという事が自分にはできていないのだという感覚がはっきりとした為ですね、どこか現実味がなく、文章を読んでも、音楽を聴いても、絵を見ても、なにか今ひとつ何も感じない空虚な感覚がするんですね。
デッサンをするにしても、何か空しくモチーフの形を追いかける事も、そもそも描く事にすら時々意味を見出せなくなります。
描くということは能動的な事で、物事をやり過ごす受動的な生き方ではおよそ何もかけないということがあって。
前回の記事にもあるように、能動的になれない事が最近の一番の悩みです。
他者のためになる言葉も助言も、一介の知識以上の域を出ないことが非常に多い。
大体はそのことは頭で考えてしまっているだけに、それについて自分の頭で考えるというよりは、人の価値観の基準に合わせた頭で対話をしようとするだけのような感覚。

学校でも大体友達と話すときは、笑顔で馬鹿笑いをよくします。
しかし大体それは本心ではなく人と話すとき都合の良い振舞いをしているに過ぎない事、全然という事はありませんが大体
「仕方なく」という感覚で日常を過ごしている様ですね。
ちょっと、そういうのに疲れてしまいました。
だったらやめれば良い、なんていうのもあるのかもしれません、いや実際そうすべきですしそれしかありませんが。
急にはやっぱり無理ですね。その事を考えている事すら現実味が持てない時もあるんです。
そういう便利に生きることがまだ今の自分には無理です。
文章で自分の考えを書くと言う事に限ってようやくなんとか気持ちが落ち着くような感じがします。
誰しも、自分と自分が一体ではないような感覚はあると思うのですが、それが今一番自分の中で変えねばならないと思ってますね。

結論なんて出ているのです、初めから。
かつてはそうしなければ生きて来れなかった、生きるための自分のルール、それを破るのは結構難しい。

今はまだましなほうで、こうやって自分の意識を変えようとカウンセリングに通い始めたり、本を読み始めています。
しかし時は流れていって受験受験ですね。
周りは進学等で必死ですし、自分もやはり大学へ行ったほうがメリットはあると考えていく事を考えていますが、その時点でやっぱりこういう現実味の無い感覚が大きく自分の絵や、勉強を損ねてしまいます。

時間が無い、周りの都合で、流れであせらされる、そのなかで回りにあわせる努力をしなくてはならない、逃げるだけは駄目だと分かったので、向き合う事をしようとします。しかしまだその事で取っ掛かりがつかめずにいる。
実感をするという事をしないと、何を言われても、何が起ころうと、何を考えようと、それはまだどこか現実味の無い知識としか感じられない。

どうにかしなきゃですね。

鬱記事でしたが、テンションの高い時と低い時、波が交互に来る感じです。
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自分を知るって本当に大事 

どうも、気がつけば半年以上ゲーム屋に足を運んでいません。
着々と絵描き、または本の虫になってきているふくろばんです。

月の小遣いが完璧に画材か本に絞られちゃってます。

読む内容は物凄く偏ってるんですけどね。



最近は忙しくてほとんどデッサン以外は書かなくなったとですよ、本当に;;;


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落書きのようなもの二つ。
受験のこともあってやっぱり時間ってのはなくなるものなんですね・・・。
colorsのキャラの落書きのようなものです、友人のキャラが割かしひどい事になってます。

時間は、つめれば無い事は無いんですが、精神的に持たないです^^;
まともな絵を描こうと努力はしてるんですがその前にまずデッサン、という流れになってしまうんです。
や、本業はソッチなので問題ない事は無いんですが・・・・・・。

どうもイラストを描く手順でデッサンをしている感が否めないんですよね
アウトラインを重視しすぎるせいでそもそもの立体的で基本的なデッサンが出来ないのです。

本音はこれを逆にしてやりたいんですよね。
何もかも上手く行く気がするんですが、まずは癖を直さないといけないです。

そう思って、家に石膏像を置いて、粘土でそれを模刻する事にしました。
石膏像を見ながら立体で再現するのです。
感覚が平面ならそれと全く逆の事をすれば感覚が養われるのでは?と考えました。

まぁ、アトリエは自室なわけなんですが・・・。
部屋におけるかな、石膏像( ;´Д`)







人と、人が互いに付き合うことって言うのは本当に難しいものなんですね。

つい最近、今までの自分の思い込みで人を傷つけてしまいました。

彼は友人で、自分の数少ない友人の一人だったのですが自分の行過ぎた依存で彼自身の孤独を侵害してしまったのです。
自分は半ばトラウマ的な衝動から、人にべったりと依存をするか、まったくといって良いほど交流を絶って距離を置くかをしてしまう性質でした。

孤独を恐れるあまり、人と付き合うということに対して過剰的に反応をしてしまうみたいで、上手く心の距離を保つ事が出来ないのです。

それは今でも変わりませんし、現にその友人とも仲直りをしましたが次の一歩を踏み出す事が出来ずにいます。
青年期の本を読む限りじゃアイデンテティの確立の問題であるとかどうとか。
幼少期の体験がどうとかで、自身の今までの経験で培ったいわゆる思い込みによるあまり良くないルールを自分の中に強いてしまっていたようで、それが今までの自分と、そして周りとその友人を損ねてしまったという事なのです。

友人には悪い事をしたと思ってます、許しては貰いましたが彼とはまだ距離を置いています。
彼も自分の孤独と周りとの乖離で悩んでいるようで、今回は自分が彼に近づきすぎた結果起こったことなんだと反省してます。

少しずつですが、また話す機会を取り戻したいと思っとります。今は互いに時間が要るということなのでしょう。
今から自分以外の他人と向き合うというのはどういうことなのか学んでいきたいです。


最近は前以上に本を多く読むようになりました。

自分の内面的な問題をいい加減解決するためには自分を知らなければならないと感じたからです。
自分を知ることが出来なければ周りを知ることも出来やしないし変える事も出来やしないと思い本を読むようになりました。

哲学の本やリルケ、ヘッセ、ロマンロラン等の本を読み始めています。
今までその場その場の刹那的な時間に対してやり過ごす事だけを考えて生きていたわけなのですが、それぞれの本を読んで認識が変わりました。

後ろ暗く、卑屈な自分を隠して周りと自分をごまかす事ばかりを考えていた今までの自分をぶっ飛ばしたい気分です。
その結果、自分自身の友達を傷つけてしまう結果となったのですから悔しいです。

哲学やそういうものを自分自身の信仰にするつもりはないですし、それを生きる理由にしたいなどを思いません。
あくまでもどんな言葉にしろ、それは死んだ知識でしかないですし、意味を持たせるのもどうするのかも自分自身なのだと感じました。
必然的なことに対してどのように生きるかを考えて生きることが今ではとても充実しているように感じます。

まだまだ理解は浅いですし、誤解も多いせいで意味を取り違えて読むことも多く、何度も読み返してしまいますがそれでも前に進んでいるような気はします。

どう生きるのか、僕はまだそれを探って生きています。
それの一つの手段として芸術と絵があるんだと思います。

なんだか、同じ事をいくつかの記事に再三書いてる気がします、いや、絶対書いてると思います。

訳が分からなくなりましたけど、最近の自分は大体こんな感じです。

それでは




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背後にある目 

気が付いたらMP3プレイヤーもヘッドホンもアボーンして、ソッチ方面ではほとんど満たされる事がなくなったふくろばんです。

プレイヤーは選曲ボタンが音量を操作するボタンになり、ヘッドホンはもう配線があらわになっちゃってます。

身の回りのものがどんどんとガタがきはじめてます。


デッサンの大切さ、というかどんどん最近デッサンが好きになってきました。

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ケータイで取ったものなのでなんかデッサンというよりかはペインターで塗り塗りしたみたいになってますね^^;
画素数の重要さが身に染みて理解できました。

大体これで12時間くらいでしょうか、画素数があまりにも残念なので実際どんな風なデッサンなのかはわかりにくいんですけどだいぶ個人的に素直に描けたデッサンだと思いました。
描いたのは石膏像のアリアスですね。

よくデッサンは物の見方だ、といわれますがまさにその通りだな、と実感します。
モチーフだけに限らず、自分自身が周りの世界をどのようにして感じているかというのが最も顕著に見て取れるものだと思います。
今の自分が悩んでいる事、大事だと思っていること、自分自身の人間性が驚く位描いたデッサンに現れるんです。
まるで背後に目があるかのようです。

良いデッサンっていうのは対象にどれだけ自分をまっすぐに向き合わせて素直に描ける事なのかなぁ、とぼんやりと考えます。
目の前のものを出来るだけ丁寧に、自然に何も考えないで見たものを描けば自然にそこに自分が現れてくるものだと考えました。
自分の感じたものを上手く表現するための技術と自然から学ぶ目を鍛える為にも客観的な理屈や技法なんてものは必要です、思い込みはデッサンだけに限らず全部の事について禁物って事なんでしょうか。

求める答えは目の前の自然物にあるんですからね、わざわざ疑ってかかる事もないんだと学びました。
頭の中だけで描いてるようじゃいつまでたっても上手くなんてなれないんですね・・・。
まだまだ精神的に未熟者です。

皆もデッサンしましょうぜ!!

たまには息抜きもしますけどね
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数学のテストがまるでわからなかったので暇つぶしに描いた落書き。
こういうふわふわした髪型が大好きです。



精神的に落ち着いたので久々に家でも油絵を描きました。
本当にしたいこと、欲望だとかそんなものに素直になるんじゃなくて理想を求める自分に段々素直に慣れている気がします。

現実を知ることも大事なんですけど、こんなものなのか、という風に終わらせて社会の資源として生活の為に生きようなどとはもう思いません。
よく「それでお前はどうやって生きていくんだ」て言われます。
こうやって生きていくつもりだ!ってまだ周りが怖いので声高に宣言できませんけど、僕にはどうしても社会的に安泰な生活っていう物には興味が持てないのでやっぱり個人として生きる事しか出来ないみたいです。
生きる事が生活をする事では無い筈、生きるってどんな事なんだろうな、と最近良く考えます。

過去の対人関係での苦い経験から公共の社会の場にどうやって向き合うべきか、ずっと自分殺して来て逃げてきましたが、そろそろ悩み通しのループから脱しないといけないと思い始めました。

そんな感じの受験生です。

では、今回はこの辺で

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